お前はまだ「コミュニティ」を知らない | コミュニティ屋さん|清水明夫

お前はまだ「コミュニティ」を知らない

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SNSやオンラインサロンが世間一般に普及し、また地方創生の名のもとに地域コミュニティの重要性が叫ばれている事などにより、「コミュニティ」について語られる事が多くなったように思います。しかし、その定義は曖昧なまま語られている気がするので、コミュニティ屋さんとしての所感を記しておきます。

(タイトルは「おまぐん」を意識して付けただけなので、ケンカ売ってるわけじゃありません。)

そもそもコミュニティは何のために存在するのか?

コミュニティは何のために存在するのでしょうか。

共に学ぶためでしょうか。何かをシェアするためでしょうか。何かを共に目指すためでしょうか。

あえて、言い切ります。

コミュニティの目的は、「共に、居る」ことです。

これは、リアルな場のコミュニティにおいても、ネット上のコミュニティにおいても、同じです。

共に学ぶ事や、共に何かを作り上げる事、共に何かを目指す事、は、コミュニティの「機能」であり、「共に、居る」という目的のための「手段」です。

コミュニティの反対語は〇〇

コミュニティの反対語を明確にすると、コミュニティの定義を、より理解しやすくなる気がするので、

コミュニティの反対語について考えます。

コミュニティの反対語、何だと思いますか。

・・・

・・・

・・・

僕が定義するコミュニティの反対語は、

「組織」です。

「組織」とは、「作り上げる事」や「達成する事」を目的とし、そのための手段として、「共に、居る」という手段を用います。

「組織」には、 目指すべき共通の「ゴール」があります。

「組織」は、1つの共通のゴールに向かって、「縦」の系統で人が繋がります。

それとは対照に・・・

「コミュニティ」とは、 「共に、居る」事を目的とし、そのために「共に学ぶ事」や「共に作り上げる事」や「共に目指す事」を 手段として用います。

「コミュニティ」には、 目指すべき1つの「ゴール」はありません。「プロセス」そのものが目的とも言えます。

そのため「コミュニティ」は、手を繋ぐ形の通り「横」の系統で人が繋がります。

じゃあ、例えば「学びを目的としたコミュニティ」って何なの?「学ぶ事」や「学びを共有する事」が目的じゃないの?

ある意味、その通りなのですが、厳密に言えば、「学びを目的としたコミュニティ」とは、「学びを目的とする事」をいい意味でダシに使って、共に居る事を目指す集まりです。つまり、結局のところ、「共に、居る」事が目的です。

コミュニティに所属する人は、自覚的か無自覚的かは置いておいて、「共に、居たい」からそこに所属しています。コミュニティに入る時は、「学びを目的とする」や「共に何かを目指す」とかの理由で入る事はあるかもしれませんが、結局のところ、そこに一緒に居たいから、コミュニティに所属し続ける事ができるものです。

「何かを成し遂げる事」や「何かを生み出す事」が世間一般的に、理解されやすい価値となっているため、それをコミュニティの目的として位置づけるべきだと思っているコミュニティリーダーやコミュニティプロデューサーも多いように感じますが、「共に、居る」という価値意識・目的意識が抜けているコミュニティは、とても脆く感じます。

これは、自転車に少し似ています。

自転車が前に進んでいる時は立っている事が容易にできるのに、自転車の進むスピードが遅くなった時、自立するのが難しくなる。でも「足腰」が強ければ、スピードが遅くなっても、自立していられるものです。

コミュニティも一緒です。

共に何かを目指している時は、維持しやすいのですが、目指すものが無くなった時や、目指していたものに疑問を抱いた時、コミュニティは崩壊しやすくなる。この時にコミュニティを支えてくれるコミュニティの「足腰」とは、「共に、居る」という事への価値意識です。 「足腰」の上に「上物」を積み上げるのか、「上物」の上に「上物」を積み上げるのか。それによって、コミュニティの強さは大きく変わってきます。

「生み出す」でも「作る」でも「目指す」でもなく、ただそこに「居る」という事の価値は、僕には計り知れないほど大きいように感じてなりません。

コミュニティ性が求められた時代背景

戦後の高度経済成長期は、社会全体が目指す「ゴール」が明確でした。その「ゴール」とは、「不便でなくなる事」であり、「飯を食うに困らない事」でした。これは、誰も疑う事のない「ゴール」でした。

問題はまだ残ってはいるものの、先輩たちが頑張ってくれたお陰で、それらの「ゴール」は現在、ほぼほぼ達成していると言っても良いくらいの時代になりました。「ゴール」を達成してしまったため、少しみんなが迷子になりました。そして、それぞれの「ゴール」が個々で多様化しました。

1つの「ゴール」にみんなで向かうための最適な形であった「組織」が、時代とともに、それぞれの個々が持つ別々の「ゴール」に向かうために最適な形である「コミュニティ」にバランスの比重を傾けているのは、必然の流れのようにも思います。

決して、コミュニティが良くて、組織が悪い、という話ではありません。1つのゴールを達成するために最適な形は「組織」であり、多様化したゴールに向かう最適な形がコミュニティというお話です。場面場面によって、どちらが最適なのかは変動してくると思います。

この集まりはコミュニティ?それとも組織?

「会社も、コミュニティ化してきている時代だ」と言われます。

「縦」の系統で繋がる企業文化から、フラットな体質の「横」に繋がる企業文化が生まれてきている風潮が、それです。

ここで、こんな疑問が沸いてくるんじゃないでしょうか。

じゃあ、あの会社や団体って、「組織」なの?それとも「コミュニティ」なの?

僕の答えは、ズバリ、どちらでもありません。

そもそも、白黒つける話ではありません。大体の会社や団体は「グレー」だと思います。

強いて言うならば、

どのくらい「コミュニティ性」の高さがある会社・団体なのか。どのくらい「組織性」の高さがある会社・団体なのか。というお話だと思います。

つまり、どの会社や団体も、組織でもあり、コミュニティでもある。その「コミュニティ性」と「組織性」がどのくらいのバランスで共存しているのか、それによって「グレー」の濃度が変わりますが、決して白か黒かという議論ではありません。

最小限のコミュニティは〇〇

3人以上の人の集まりを「コミュニティ」と呼ぶ事が多いですが、僕たちにとっての最小限のコミュニティとは、何でしょうか。

友達?

家族?

夫婦?カップル?

僕が思う、最小限のコミュニティは、

「自分」です。

日本人は、無意識に、自分という存在の中に、いくつかの人格を認識しています。

「自分に甘い」「自分に厳しい」「自分を大切にする」「自分を犠牲にする」など、日常的に使われる文章かと思いますが、これらの文章には主語が省略されています。

その省略された主語は、「自分」です。

つまり、「自分が、自分に甘い。」「自分が、自分に厳しい。」というように、誰しもが、自分という存在の中に、自分という人格を複数認識しています。そして、その複数の「自分」同士の関係性を認識しています。

そして、

自分の嫌いな部分と同じ要素を持った相手を見ると、その相手の事を「嫌いだ」と感じたり、

自分が自分を許せないと相手を許せなかったり、自分が自分を許せると他人を許せたり、

といった風に、他人との人間関係の基礎になっているのは、「自分」と「自分」との関係性です。

「自分」の中には、色んな自分自身が複数いて、それぞれの「自分」同士の間に「関係性」が生まれている。

そこが基礎になって、ある意味、鏡合わせのように、他人との関係性が生まれ、他人とのコミュニティが生まれています。

なので、僕が思う最小限のコミュニティは、「自分」なんです。

居場所とは

コミュニティが「居場所」になれるかどうかは、そのコミュニティにいる時に居たい自分で居られるか、在りたい自分で在れるか、が その人にとっての「居場所」になれるかどうかの分かれ目です。

居たい自分で居られる場所に対して「居場所」を感じたり、自分では受け入れられない(顕在的には受け入れたくないけど、潜在的にはめちゃくちゃ受け入れたい)自分を受け入れてくれる人に対して「居場所」を感じたりするものです。

そして、「ここは私の居場所だなぁ」と感じている時って、すなわち「居たい自分で居られているなぁ」と感じている時だと思います。そう考えると、自分の外に居場所があるようで、自分の内側に居場所があるようで、これも鏡合わせになっています。

鏡合わせなので、「自分」との関係性に「居場所」を感じられたら、外の人間関係の中にも居場所を感じやすくなりますし、逆も然りで、外の人間関係の中で居場所を感じる事で、自分自身の中に居場所を作っていく作業をみんな無意識にしているようにも感じます。

コミュニティ屋さんとして、居場所をつくる事は僕の大きな命題ですが、最も良い仕事ができたなぁと感じる時は、コミュニティを居場所と感じられた事によって、その人自身の中に居場所ができ、そうすると、このコミュニティから離れても居場所にまた出会いやすくなる、そんなその人自身の中の居場所を、その人が見いだせた時、良い仕事が出来たなぁと感じます。

誰だって、いつまでも一緒に居られないから、このコミュニティだけでしか生きていけない「自分」、じゃ、心配じゃないですか。

でも、その人の中に居場所があってくれたら、どこに居ても「自分」が、一番そばで守ってくれますし、また「居場所」と感じられる場所に出会いやすくなります。

・・・・・

こういった話は、分かりにくいのであまり口にする事はなく、表向きは「人と人との関係性」にまつわる仕事をしている人だと認識してもらう方がまだ分かりやすいので、そういう話に収める事が多いですが、その人の中の「自分と自分との関係性」づくりが、実はコミュニティ屋さんの自分としての最も重要な裏ミッションだったりします。わかりにくいし、別に無理に理解してもらう必要もないので、あくまで「裏」です。

なので、コミュニティ屋さんとして僕があなたに願う事は、「自分と仲良くしてくれたらいいな」「自分を許してくれたらいいな」「どんな自分も、どんなに消そうとしても、それは『自分』なので、受け入れてあげてもらえたらいいな」とかを心の中では願っています。

分かりにくいから「他人と仲良くしてくれたらいいな」「他人を許せたらいいな」「他人を受け入れられたらいいな」って表現する事の方が多いですが、鏡合わせなので結局、同じ事なのです。

まとめ

僕たちはみな、自分を知らない。自分の中にいる自分の存在を知らない。知りたくない自分を、知らない。自分の中にある、自分同士の関係性を、知らない。

そして、自分を知る事で相手を知ろうとしたり、相手を好きになる事で自分を好きになろうとしたり、安心できるコミュニティに身を置く事で自分自身の中に自分の居場所を見つけようとしたり、新しいコミュニティに身を置く事で新しい自分を見つけようとしたりする。

だから、奥が深くて、面白いなぁって思うんです。「自分」って、宇宙じゃないですか。コミュニティって、宇宙じゃないすか。

「私」という存在も、「あなた」という存在も、「私とあなたの『関係性』」も、果てしなく答えのない奥行きがあるからです。

僕たちはまだ『コミュニティ』を知らない。

僕たちはまだ『自分』を知らない。

だから、コミュニティ屋さんは辞められないのです。

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清水 明夫

1984年12月18日群馬県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。学生時代にシェアハウス運営会社を起業、都内でシェアハウスを運営する傍ら、北海道から九州まで国内各地におけるシェアハウス開業を支援。日本国内のシェアハウス普及における草分け的存在に。2013年より地元群馬県に戻り地域活動を開始。2015年高崎市議会議員選挙にて2位で初当選。移住促進活動や野外音楽フェスの開催、毎月1~2回のマルシェイベントの運営、ライブハウスでの政治イベントの開催などの活動を経て、2019年、2度目の市議会議員選挙にて1位で当選。
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